びっちゅうこくぶにじ あと
備中国分尼寺跡

  岡山県総社市上林に過って建てられていたという「備中國分尼寺跡」でについて取り上げました。
※備中国分尼寺は、備中国分寺より少し遅れて造られ、短い期間で廃絶したと考えられているそうです。
備中国分尼寺は、備中国分寺の創建時(8世紀後半)よりやや新しい軒丸・軒平瓦と同じ型で作られたものが1種類見つかっているだけですが、備中国分寺より少し遅れて造られ、短い期間で廃絶したようです。
寺域は東西108m、南北216mと細長く、南門、中門、金堂、講堂が南北に一直線に並ぶ配置です。
このほかに性格のよくわからない建物もあったようです。
資料は説明板を参考にしました。
説明板が無ければおそらく見過ごすことになるのかなと思ったのですが、説明板などが整備されていまいたので、国分寺、国分尼寺が対で建てられていたのだな〜と思いました。
少し歩いてみて、目をつぶり昔々の尼寺のことをチト考えたのでした。
05.09.09裕・記編集
伽藍(がらん)配置
建物 (食堂?)
講堂
金堂
回廊 中門 建物
(塔、鐘楼?)
築地土塀 南門
平成3(1991)年3月
文部省   岡山県教育委員会
        食堂(じきどう)
〔仏〕寺院で、僧が食事をするための建物。
        講堂(こうどう)
仏教寺院の七堂伽藍の一つ。講義・説経などを行う建物。
        築地(ついじ)
土をつき固めて造り、瓦などで屋根を葺いた塀。

05.07.22撮影
金堂跡(こんどうあと)
備中国分尼寺の本尊をまつっていた建物跡で寺域のほぼ中央に位置していました。直径≒70cmの円形の柱座や地覆座をもつ大形の礎石がほぼ当初の位置に現存しており、創建時の建物は桁行五間(≒20m)、梁間四間(≒13m)であったことがわかります。
礎石から推定される柱の太さは≒70cmで極めて雄大な建物であったと想像されます。本尊は中央の奥まった位置に須弥壇を設けて安置されていました。
地覆(じふく)
1)建物・門などの柱間の最下端に入れる横木。
2)建物の土台。
礎石(そせき)
1)建造物の土台として据える石。基礎。
岡山県総社市上林

05.07.22撮影

05.07.22撮影
礎石並び 柱座
(こくぶんじ)
国分寺:
741年、聖武天皇の勅願により、国ごとに建てられた官寺。
正式には僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺といい、奈良の東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺とした。普通には僧寺をさす。
(こくぶんにじ)
国分尼寺:
聖武天皇の勅願によって国分寺とともに国ごとに建てられた尼寺。
法華経を講じさせ、奈良の法華寺を総国分尼寺とした。
(ほっけじ)
法華寺:
天平年間(729-749)光明皇后が父藤原不比等の邸宅跡に総国分尼寺として開く。
鎌倉時代に西大寺の叡尊が再興。現在の本堂は慶長年間(1596-1615)に豊臣秀頼の再建したもの。
本尊十一面観世音立像は平安初期の作。法華滅罪之寺。氷室御所。
(ほっけめつざいのてら)
法華滅罪之寺:
1)奈良時代、全国に建てられた国分尼寺の正称。
2)法華寺のこと。



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