深川七福神詣で
  東京都江東区の深川、門前仲町地区の七福神を巡る「深川七福神詣で」を取り上げました。
正月に深川七福神詣でをし絵馬に朱印をもらったことを兄夫婦に聞き、今(2003)年の我家の福運を願って私も巡って(詣でて)みようと思ったのです。
また深川七福神会発行の小冊子‘深川七福神’によるとご開帳が元旦より15日の間と書いてありましたのでこの間にと思ったのです。七福神を言えない女房を笑っている私でしたが、その実恥ずかしいことに私も言えなかったのです。
2時間もかからず回れると聞いていましたので富岡八幡宮からはじめました(朱印を捺してもらう色紙が売っていると聞いたからです)。
富岡八幡宮は(15日とかで)骨董市で露店が出ていました。七福神詣での人も老人の団体さんあり、嫁?の肩を借りながら参拝していた老婆等々結構居られましたがさすがに若者は富岡八幡宮・深川神明宮以外は皆無でしたね。
乗物を利用することもなく歩いて回りました、ぶらり歩いても2時間もあれば充分回れる距離でしたが、ジョギングシューズでなかったことがチト反省材料ではありました・・・・そして便所が捜せなくて結構困りましたね。
03.01.22裕・記編集
深川七福神概要・案内図
順路 寺社宮院名 奉祀 福徳
1 富岡八幡宮 恵比須神 愛敬富財
2 冬木弁天堂 弁財天 芸道富有
3 心行寺 福禄寿 人望福徳
4 円珠院 大黒天 有福蓄財
5 龍光院 毘沙門天 勇気授福
6 深川稲荷神社 布袋尊 清廉度量
7 深川神明宮 寿老神 延命寿命

03.01.15撮影

03.01.15撮影

03.01.15撮影
富岡八幡宮・概説 冬木弁天堂 心行寺

03.01.15撮影

03.01.15撮影

03.01.15撮影

03.01.15撮影
円珠院 龍光院 深川稲荷神社 深川神明宮
七福神以外の紹介
法乗院(ゑんま堂) 間宮林蔵の墓
万年橋南詰にある公衆便所 芭蕉記念館
色紙@1000円/1枚 朱印料@100円/1箇所 
〆て1600円かかりましたがいい記念になりましたと言ったら神様から不謹慎と言われますかね・・・
とみおかはちまんぐう
富岡八幡宮
江東区富岡1-20-3
東京都江東区富岡に鎮座し、旧府社で深川八幡宮とも称す。祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと)に天照大神(あまてらすおおみかみ)ほか三柱を配祀する。天平宝字年間(757〜765)の創建と伝えるが、『江戸名所図会』には源三位頼政(げんざんみよりまさ)が尊崇した神像を千葉・足利両氏が伝え、のち太田道灌の守護神になるという。1627(寛永4)に永代(えいたい)島に再建、江戸下町の繁盛につれてとくに深川木場の尊崇を集める。
恵比須神は、富岡八幡宮境内の西側にある恵比須宮に奉祀されている。
ふゆきべんてんどう
冬木弁天堂

江東区冬木22-31
弁財天がお祀りされています。
冬木弁天堂は、木場の材木商だった冬木弥平次が宝永2(1705)、中央区茅場町から、深川に屋敷を移転した際、邸内の大きな池のほとりに、竹生島から移した弁財天を安置した。そのため今でもここを冬木町という。その弁財天は、等身大の裸形弁天なので、毎年1回衣装の着替行事を行ってきたが、大正12年の関東大震災で焼失。
明治3年から一般に参詣を開放し、現在の弁天堂は、昭和28年に再建された。冬木弁天堂は、古義真言宗に属している。
しんぎょうじ
心行寺

江東区深川2-16-7
元和2(1616)京橋八丁堀寺町に創立された浄土宗の寺で開山は観智国師の高弟である屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室・養源院殿であり、寛永10(1633)年現在地深川寺町に移った。
 関東大震災と戦災により二度も焼失したが、現在の本堂は昭和42年に再建さた。昭和50年に福禄寿が安置されている六角堂が完成した。
えんじゅいん
円珠院
江東区平野1-13-6
円珠院は、享保のころ旗本永見甲斐守の娘、お寄の方が起立した後、円珠院殿妙献日寄大姉の法名で、享保15(1730)年末にこの寺に葬られた。
 享保5(1720)年11月13日に画かれた大黒天の掛軸があり、木造の大黒天が安置、境内に石造の破損大黒天が安置されている。江戸時代から、深川の大黒天として有名。
りゅうこういん
龍光院

江東区三好2-7-5
 慶長16(1611)年に馬喰町に創立され、明暦3(1657)年大火で焼失、天和2(1682)年岩井町から深川の地に移転した。
移転した時鬼門除けとして東北角に毘沙門天が安置され昭和11年に毘沙門堂が建立され、戦災で焼失したが昭和50年復興したそうです。
深川稲荷神社
江東区清澄2-12-12
寛永7(1630)年の創立、深川地区では、創立の古い神社。祭神は、宇賀魂命、西大稲荷ともいう。
この付近の旧町名は、深川西大工町で、昭和7年8月1日深川清澄町と改称し、その旧名から西大稲荷と称した。
この神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から、船の往来がはげしく、この付近一帯に、船大工が住み、船の修理、造船をしていたので、この町名が生まれたといわれている。この神社は、無住社にして、町会によって管理運営されている。布袋尊が奉られている。
ふかがわじんみょうぐう
深川神明宮
江東区森下1-3-17
深川において創立の最も古い神社。大阪摂津の深川八朗右衛門が、この付近に、深川村を開拓し、その鎮守の宮として、慶長元(1596)年伊勢皇大神宮の御分霊を祀って創建した。
徳川家康が、この村に来て、村名を尋ねたがらないので、深川八朗右衛門の姓をとって、深川村と命名せよといわれた由以来深川村が発展し、深川地区の各町に冠せられ、深川の地名のもとになった。
寿老神は境内の寿老神社に安置されている。
参考資料    深川七福神会発行の小冊子       
小学館版『日本大百科全書』ポケット版  他
七福神とは
1番右の恵比寿神のシールが剥れてなくなっています(裕が収集している七福神絵馬です)
福徳の神として、七難を除き、七福を与える神々として信仰されている七神の組合せ。
「七福とは、一般には寿命(=寿老神)、有福(=大黒天)、人望(=恵比須神)、清廉(=布袋)、威光(=毘沙門)、愛敬(=弁財天)、大量(=福禄寿)といわれいます」「七難とは、一般には日月の難、星宿の難、火災の難、水害の難、風害の難、早魃の難、戦乱盗賊の難といわれています」中世商人社会で福徳施与の神として流行的に信仰され、近世以後にも及んだ。
七福神は瑞祥(ずいしょう)の象徴として絵画・彫刻の好題材となり、またその影像を家に飾って拝礼し、
あるいは七福神詣でや初夢の宝船などの信仰習俗を広く生じ、一方、七福神舞などの芸能もできて現在まで伝わっている。
だいこくてん
大黒天
元来ヒンドゥー教の主神の一つで、青黒い身体をもつ破壊神としてのシバ神(大自在天)の別名であり、仏教に入ったもの。摩訶迦羅(まかから)と音写。マハーカーラは偉大な黒い神、偉大な時間(=破壊者)を意味する。密教では大自在天の眷属で三宝を愛し、飲食を豊かにする神で黒色忿怒相を示し、胎蔵界曼荼羅の外金剛部に入れられている。中国南部では床几に腰を掛け金袋を持つ姿になり、諸寺の厨房に祀られた。
わが国の大黒天はこの系統で、最澄によってもたらされ、天台宗の寺院を中心に祀られたのがその始まりといわれる。その後、台所の守護神から福の神としての色彩を強めた。
えびすじん
恵比須神
(夷、蛭子)
生業を守護し福利をもたらす神として、わが国の民間信仰のなかで広く受け入れられている神霊。
語源はさだかではないが、夷、つまり異郷人に由来すると考えられ、来訪神、漂着神的性格が濃厚に観念されている。現在一般にえびすの神体と考えられている烏帽子をかぶりタイと釣り竿を担いだ神像によってもうかがえるように、元来は漁民の間で、より広範に信仰されていたものが、しだいに商人や農民の間にも受容されたと考えられる。
びしゃもんてん
毘沙門天

仏教の護法神。サンスクリット語バイシュラバナで、転じて毘沙門天となる。多聞天、遍聞天とも称する。
インドのベーダ時代からの神で、ヒンドゥー教ではクベーラの異名をもつ。もとは暗黒界の悪霊の主であったが、ヒンドゥー教では財宝、福徳をつかさどる神となり、夜叉、羅刹を率い、帝釈天に属して北方を守護する神とされた。仏教では四天王の一尊で須弥山(しゅみせん)の北方に住し、多数の夜叉を眷属として閻浮提(えんぶだい)州の北方を守る護法の善神とされた。その形像は甲冑を身に着け、憤怒の相をし、左手に宝塔を捧げ、右手に宝棒または鉾を執り、二夜叉(鬼)の上に座る。十二天の一とされるが、わが国では単独でも古来から信仰された。
べんざいてん
弁財(才)天

仏教における智慧、弁舌、技芸の女神。略して弁天。また妙音天、美音天、大弁才功徳天ともいう。
もとはヒンドゥー教の神。サラスバティーは「水を有するもの」を意味する女性名詞で、アーリア人が東漸するとき、各地の川をよんだ名であり、アフガニスタンのカンダハル地方の古名アラコシアもそれに由来するとされ、インダス平原やガンジス平原にもこの名の川があった。ブラーフマナ文献ではことばの神とされ、ウパニシャッドでは音楽神とされた。ヒンドゥー教のこれらの概念を受けて仏教に弁才天を登場させたのが『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』で、弁才天はこの経を説く人や聞く人に知恵や長寿や財産を授けると述べている。
ほていそん
布袋尊
中国の明州奉化県(現浙江省)出身の禅僧
腹が大きく膨れた肥大な体躯であった。いつも大きな袋を持ち、杖をついて市中に喜捨を求め、食物その他もらい物などいっさいを袋の中に入れて歩いたという。
わが国には室町時代からこの奇僧のことが知られるようになり、その福徳円満な風貌と、よく子供に取り囲まれていることが多くの人の話題となり、絵画や詩文に描かれるようになった。布袋がどうして七福神の一つとして加えられたかは明らかでない。中国の後梁の貞明2(916)に没したと伝えられ、弥勒菩薩の化身ともいわれている。
福禄寿
ふくろくじゅ

福禄人ともいう。幸福と封禄と長寿を兼ね備えるという中国の福神。
短身長頭で経巻を結んだ杖を持つ姿に表現される。南極星の化身という説もあり、また寿老人と混同されることもままある。日本に導入されたのは、おもに禅宗の流布と関連する水墨画の題材としてであり、やがて七福神の一つに数えられるに至ったが、独自の福神としては一般の信仰対象にならなかった。
じゅろうじん
寿老神(人)
福神の一つで長寿を授ける神。
中国の宋代、元祐年間(1086〜93)の人物と伝えられ、その偶像化といわれている。小柄な老人が鹿を伴い、巻物をつけた杖を携えるというのが定型の姿である。日本には禅宗伝来後における水墨画の発達に伴い、その画題の一つとして移入されたものらしい。布袋、福禄寿とともにのちには七福神の仲間入りをして福徳神の一つともされた。しかし寿老人は瑞祥(ずいしょう)の象形とはされたが、個別に福神として信仰されるには至らなかった
寿老神(人)は、福禄寿と同体異名として除き、吉祥天を加えることもある。

きちじょうてん
吉祥天
仏教の福徳の女神。「きっしょうてん」とも読む。
サンスクリット語シュリーマハーデービーの訳。功徳天ともいう。ヒンドゥー教のラクシュミー(別名シュリー。吉祥の意)が仏教に取り入れられたもので、ヒンドゥー神話においてはビシュヌ神の妃であり、「大海から生まれたもの」の異名をもち、愛欲神カーマの母である。仏教では毘沙門天の妃とされる。
日本では古代に、彼女を本尊として福徳を祈願する吉祥天女法(てんにょほう)が大極殿(だいごくでん)や国分寺で行われたが、後世には、彼女への信仰は庶民的な福徳の神、弁才天の人気の陰に隠れたようである。薬師寺の画像や浄瑠璃寺の彫像が有名で、左手に如意宝珠(にょいほうしゅ)をのせている。



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