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東京都江東区平野に建立されている「間宮林蔵の墓」です。 |
間宮林蔵は安永9年(1780、一説には安永4年)常陸国(茨城県)筑波郡上平柳村生まれ、天保15(1844)年に深川蛤町の家で没しました。名は倫宋※(ともむね)といい、伊能忠敬に測量を学び、寛政12(1800)年に幕府の蝦夷地御用雇となり蝦夷(北海道)をはじめとする北地探検と測量に従事しました。
文化5(1808)年、幕命により松田伝十郎(越後国の人:1769-1842)とともに樺太(サハリン)を探検した林蔵は翌(1809)年7月2日単身樺太からシベリアへ渡って沿海州に入り、黒竜江(アム−ル川)をさかのぼりデレンに達しました。この15ヶ月間におよぶ探検で樺太が島であることが明らかとなりました。
林蔵は後に間宮海峡と命名される海峡を欧州人にさきがけて発見したことにより、地理学者、探検家として世界的に有名となりました。 平成2(1990)年2月1日江東区教育委員会 |
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説明板には宋と記述してありますが、辞書を引いてみましたが宗の間違いでしょう |
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2016年になり、NETの友に(新潟県)柏崎市米山町聖が鼻に2004(平成16年)年「松田伝十郎・碑」が建立されたようで、2007(平成19)年中越地震で崩壊し、2009(平成21)年に現在地に移設されているようですが、松田伝十郎・碑が建立されていることを知りましたので追記しました。(16.07.11.追記) |
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間宮林蔵(まみやりんぞう:1775-1844) 一説には1780-1844 |
江戸後期の探検・測量家。間宮海峡の発見者。名は倫宗(ともむね)。常陸国筑波郡谷井田村(茨城県筑波郡伊奈町)上平柳の農業・箍屋(たがや)に生まれる。
地理学者村上島之丞に規矩(きく)術(三角測量)を学び、1800(寛政12)年蝦夷地御用掛雇となる。同年箱館で伊能忠敬に会い師事、のち天測術(緯度測定法)を学ぶ。
1806(文化3)年択捉を測量、1808年樺太に派遣され、林蔵は東海岸を調査。翌(1809)年アイヌの舟で海峡を渡り黒竜江下流地方を探検、樺太が島であることを確認した。
1821(文政4)年完成した忠敬の『大日本沿海輿地(よち)全図』には、林蔵の測量が生かされているといわれる。
1822年江戸に帰り普請役、1824年安房上総御備場掛手附(おそなえばがかりてつき)を命ぜられ、東北地方の東海岸を巡視、以後、外国船渡来の風聞や密貿易調査の隠密活動に従事。シーボルトの著作『日本』により間宮海峡は世界的に有名になる。 |
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2003年正月東京に深川七福神巡りの時に出会った間宮林蔵のお墓でした、「広島ゆかりの人たちのお墓」の頁を2008年になって編集しだしましたので、番外の人として(上記)説明板を読んで再編集しました。 |
08.11.19再編集 03.01.22裕・編集 |