ソックラム
石窟庵

  大韓民国慶尚北道慶州市進?洞999に送検されている「石窟庵」です。
石窟庵は新羅時代の景徳王10(751)年、当時の宰相の金大城によって創建され、当初は〈石仏寺〉とよばれた。
石窟の平面構造は前方が四角で、後方は丸くなっている。石窟内は本尊仏を中心としてその周囲には天部像・菩薩像・羅漢像・居士像・四天王像・仁王像(金剛力士像)・八部神衆像などが彫刻されている。
石窟庵はインドや中国の石窟寺院とは違って花崗岩で造られており、仏教世界の理想と科学技術、そして洗練された彫刻がほどよく調和をなしている傑作である。「三国遺事」に「金大城が前生の父母のために創建した」とつたえられる石窟庵は、新羅時代の芸術の極致を体現しており、東洋の仏教美術の頂点として評価されている。
1995年仏国寺と共にユネスコ世界文化遺産に指定された。(韓国)国宝第24号
1) この地が初日の出をみる名所でガイドの金さんは何回も来ていること
∵稜線の上に海(日本海)がありそこから日の出になりとても幻想的だからとの事でした。山から出る初日の出は日本各地で見られるが稜線の上に海がありそこからとなると??
2) 石窟庵といってもそれ自体が一つのお寺を圧縮した形となってる。 
本尊(釈迦如来坐像)は約3.4mと大きな白御影石でできておりこのあたりの御影石ではなくどのようにしてここに運ばれたか解明できていない、日本の植民地時代に入ってから盗掘にあったり、日本の行った(3度の)復元工事の失敗により、仏像の位置や石窟庵の正確な構造などがわからなくなってしまい、余った組石が沢山ある。
本尊には水晶(プリズムの役割)が埋込まれていたと考えられ石窟の中に射す陽の光がそれに当たり石窟の天井を光輝くようにしていたと考えられている事、光背が正面から見ると本尊についているように見えるが位置的には石窟後ろに彫られている事等々・・・・・・・
3) 統一新羅時代の造営だが、李朝鮮時代の仏教弾圧などにより、長くその存在が忘れ去られていたが、1900年頃にたまたま近くへ郵便配達をしていて雨宿りをした配達員が発見してこんにちに至った事等々・・・
慶州コーロンホテルを出てバスで市内の食堂で「カルビー湯」の朝食を済ませ世界遺産のこの石窟庵へと向かったのです。ガイドのキムさんガイドブックにはない色々な説明解説をしてくれましたが不確かながら記憶に残っているものをまじえて整理しています。
関連頁  仏国寺    04.05.01裕・記編集

04.04.14撮影
慶州市観光案内板 ご本尊、案内板を拡大してみました

04.04.14撮影
駐車場でバスから降りるとまずこの大鐘閣(鐘つき堂)が目に入り撮影しました

04.04.14撮影
吐含山石窟庵入口の門(入場)

04.04.14撮影
正面:石窟庵(後方の小山)と前面の礼拝の為の建物 右側:寿光殿
ガイドのキムさんが小さかったころは手前の建物無くて石窟庵が直接見えていたとか・・・

04.04.14撮影
寿光殿
近郊の小学校であろう多くの子ども達が見学に来ていた言葉が韓国語でなければ日本の遠足風景となんら変わらないと・・・
補修素材でセメントを使用した事で、換気ができなくなり、内部に湿気がたまって脆弱になったことなどで現在は(保存のため)後部を完全にセメントで塞ぎ、前室もガラスで閉じて人口的に換気をしているという事のようです。
石窟内は撮影禁止になっており写真がありませんので説明板でその配置がわかってもらえれば・・・

04.04.14撮影

04.04.14撮影
(日本の植民地時代)観光用に京城(ソウル)に分解し運ぼうとして解体したがもとのように復元組立てようとしたとき余った石を展示してしています、左手のガイドの金さん説明に熱が入っていました

04.04.14撮影
現在のガラス張り越に拝観する人のための建物です、後ろに円形の小山下が石窟庵本尊が鎮座されている処です
ガイドの金さんが小さかったころはこの建物はなくご本尊を拝めたと・・・・

04.04.14撮影
石窟庵の前に建物は遠足の地元の子ども達と観光客でごった返してじっくり拝見とはいきませんでした
撮影も禁止ですと日本語で注意をしていました・・・

04.04.14撮影
石窟庵に行く途中から文武王(在位661−681)海中陵(慶尚北道月城郡沖)のあるという東方の山並を見て行ったのですが
靄がかかっているようで稜線の上の日本海はなんとなく見えたようで見ることができませんでした・・・



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