高村光雲作:西郷隆盛像

  東京都台東区の上野恩賜公園に建立されている「西郷隆盛像」です。
※像の作者は、高村光雲です。
  敬天愛人  西郷隆盛と銅像の由来
西郷隆盛 (1827-1877) は、文政10(1827)年12月7日薩摩藩士として鹿児島加冶屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。若くして、藩主・島津斉彬(第11代藩主:1809-1858)に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること二回、元治元(864)年許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允(1833-1877) と謀って薩長連合を結成し、慶応3(1867)年12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。その間、高橋泥舟(1835-1903) 、勝海舟 (1823-1899)、山岡鉄舟(1836-1888)等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦火から救ったことは余りにも有名である。
その後は、故郷に退隠したが、明治4(1871)年正月、三条実美 (1837-1891)以下新政府首脳の懇請を受けて状上京、参議に昇任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主動的役割を果した。然るに、明治6(1873)年6月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断乎反対して、大使派遣による平和的修好を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視(1825-1883) 、大久保利通(1830-1878) 等の反対に敗れて辞官帰郷、私学校を興して後進青年の育成に努めた。明治10(1877)年2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦七ヵ月余、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。
そのため一時逆賊とされたが、明治22(1889)年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実(1828-1891)が、同志と共に追慕の情を表わすべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志二万五千人の醵金を得て、明治26(1893)年起工、同30(1897)年竣工、我が国彫刻界の巨匠・高村光雲(1852-1934)の作である。西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。
西郷隆盛銅像の作者が高村光雲(1852-1934)で、犬は後藤貞行(1850-1903)の作だそうです。
除幕式は1898(明治31)年12月18日
敬天愛人(けいてんあいじん) 天をうやまい人を愛すること。
特旨(とくし) 貴人、特に天皇の特別のおぼしめし。
下賜(かし) 天皇など身分の高い人が身分の低い人に物を与えること。
醵金(きょきん:拠金とも書く) ある事をするために複数の者が金を出しあうこと。また、その金。
2002年以前にもこの西郷隆盛像をみたことがありましたが、説明板を丁寧に読むこともなく時は過ぎて行きました。広島ぶらり散歩「野外彫刻等」編を編集しだして、作者の事も気にするようになってきた今(2010年)説明板を読むと高村光雲作ということがわかる迂闊さでした。追記しました。
10.04.23更新   02.05.13裕・記編集

02.03.28撮影
東京都台東区上野恩賜公園の碑

02.03.28撮影

02.03.28撮影

02.03.28撮影



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