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夜行バスが7時に東京駅八重洲口に着き、昼までの間に二重橋を見て憲政記念館公園にある日本水準原点を見てできれば9:30開館の日銀・貨幣博物館を昼近くまで見学したいと思っていたのです。 |
バスは順調な運行で6時半には八重洲口に着きました、そこから地下連絡路で丸の内側に行ったのですが、ホームレスの人達が階段に踊場に寝ていました、以前と比べ随分増えたなと思い明日は我が身かとも思いましたね、何せ布製手提げと紙袋を持ち、ジャンパーを着ている姿はまさに。 |
皇居外苑に行く途中の公衆トイレは入り口にSUS製戸があり鍵が掛けあり9時まで使用できない旨の掲示が付いていました(ホームレス対策?)人に優しくないように思いましたがマナーの低下もあるのかとも思いました、二重橋の所の駐在BOX横にいた警察官が私に「おはようございます」と声をかけてきました「ご苦労さまです」と答えると「早いですね」とどうも不審者と思われたようです。
楠木正成の銅像横のベンチに座ろうとしたら霜が降りていました、そこでお握りを食べて銅像を撮影して、桜田門の所に行き撮影していた時横を自転車で通って行た警官も私をジロジロと見ているように・・・風体が怪しい?と。 |
憲政記念館公園に着いたのですが門があり施錠してあり9:00が開園時間となっていたのです、桜田門のところまで引き返しトイレ(ここは使用できた)、ベンチで時間待ちをしたのです、日本水準原点標庫の写真を撮り予定変更で憲政記念館を見学をしました。それから銀座四丁目へと向かいました。 |
03.01.20裕・記編集 |
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03.01.14撮影 |
03.01.14撮影 |
03.01.14撮影 |
03.01.14撮影 |
桜田門(東から) |
桜田門(南から) |
桜田堀と国会議事堂と鴨 |
(皇居外堀)花の輪 |
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03.01.14撮影 |
03.01.14撮影 |
03.01.14撮影 |
03.01.14撮影 |
夜明け前の楠木正成像 |
楠公(なんこう)銅像 |
夜明け前の楠木正成像 |
丸ビルと楠木正成像 |
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くすのきまさしげ
楠木正成
?〜1336 |
鎌倉末・南北朝時代の武将。1331(元弘元)年8月、後醍醐天皇の呼びかけに応じて、笠置に参向し、のち赤坂城(大阪府南河内郡千早赤坂村)に挙兵した。赤坂城は鎌倉幕府軍の猛攻で陥落したが、1332年奪回し、摂津に進軍し、六波羅軍を撃破した。のち幕府軍が反撃、正成は千早城に立てこもり、幕府軍の猛攻に耐え、反幕府勢力結集の時を稼いだ。1334(建武元)年建武政権樹立とともに河内・摂津の守護となった。足利尊氏が挙兵し京都に迫ったとき、北畠軍と共同で尊氏軍を敗り、九州に敗走させた。しかし、1336年(延元元・建武3)東上する尊氏軍と兵庫湊川において戦い敗北し、弟正季(まさすえ)とともに自刃した。 |
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ぎんざ
銀座
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江戸幕府の銀貨鋳造所。
徳川家康は1598(慶長3)年伏見に銀貨鋳造所を設け、堺の南鐐座の銀吹人湯浅作兵衛常是(のちに大黒と改姓)を招いて銀貨を鋳造させた。ついで幕府は、1601年大津の代官末吉勘兵衛利方を登用して銀座の長官となし、銀貨の品位を改定して丁銀(ちょうぎん)、小玉(こだま)銀(小粒銀、豆板銀)をつくらせた。その後、駿府、京都(伏見より移転)、大坂、江戸(駿府より移転※)、長崎などに設けられたが、1800(寛政12)年に銀座座人の不正事件が起こり、銀座は蠣殻(かきがら)町(東京都中央区日本橋人形町二丁目)に移転し、江戸一か所に統合された。。
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1612(慶長17)年江戸幕府の銀座(銀貨鋳造所)を駿府(静岡市)からいまの銀座二丁目に移したため、新両替町または銀座町とよばれた |
東京都中央区南西部にある日本有数の商店街、歓楽街。日本橋・京橋の中心商店街、丸の内・大手町の業務地区、有楽町の歓楽街、霞が関・永田町の官庁街、および日比谷公園・皇居外苑の公園緑地とともに東京の都心地区を形成する。 |
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