桜田門

  東京都千代田区皇居外苑に造られている江戸城の「桜田門」です。
(さくらだもん)
桜田門:
1636(寛永13)年に日比谷入り江を埋め立てて造成されました。
1923(大正12)年の関東大震災で破損し、その際に鉄網土蔵造りに改修されました。
第一の門と第二の門との中間に桝形(四角形)の広場がある「桝形城門」の形式で1961(昭和36)年6月、国の重要文化財に指定されました。
(さくらだもんがいのへん)
桜田門外の変:
幕末期の1860(安政7)年3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼が桜田門外で水戸、薩摩の浪士に暗殺された事件。桜田門は江戸城内郭門(うちぐるわもん)の一つ。
将軍継嗣問題や安政五か国条約(安政通商条約)の違勅調印、安政の大獄などが原因といわれています。今の憲政記念館附近が彦根藩の上屋敷があったことで位置関係がわかります。
(いいなおすけ)
井伊直弼:
(1815-1860)
江戸末期の幕府の大老。彦根藩第13代藩主。日米修好通商条約を違勅調印し、安政の大獄の中心人物。
桜田門外で暗殺された。彦根藩に生まれる。1831(天保2)年藩から300俵の宛行扶持
(あてがいぶち)をもらい、尾末町の北の御屋敷に移り、これを埋木舎と名づけ、1846(弘化3)年までの15年間、ここで生活した。ここで直弼は禅、兵学、茶道などの教養を積み、国学、歌道、古学などを学んだ。1850(嘉永3)年彦根藩を襲封。1854(安政元)年の日米和親条約で鎖国体制は崩れ始めた。開国政策を支持する譜代大名を牛耳っていた直弼は、攘夷主義をとった徳川斉昭(なりあき)以下、家門・外様大名と対立するに至った。外様大名一派が、一橋慶喜(よしのぶ)を担いだのに対し、直弼ら譜代大名の派は、徳川慶福(よしとみ)を推した。1858(安政5)年直弼は大老に就任、継嗣を慶福に決定し、日米修好通商条約に調印した。一橋派が一斉に井伊攻撃に立ち上がると、直弼は徹底してこれを弾圧し、安政の大獄を引き起こした。しかし直弼は1860(万延元)年桜田門外に横死した(=桜田門外の変)。
何度も東京に行ったことがありますが、わざわざ桜田門を見に行こうなどという発想はなく何処にあるのかも知らなかったのですが、二重橋を見て、憲政会館に行く途中に位置しており、この門を通りましたので撮影したのです。
桜田門外の変、事件の詳しいことは知りませんが、日本史で習ったことがあるからでした。
03.01.20裕・記編集

03.01.14撮影
東京都千代田区皇居外苑
第ニの門 (渡櫓門)

03.01.14撮影
第一の門 (高麗門)



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