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けんせい
憲政 |
憲法に基づいて行われる政治。近代的議会制度による政治。立憲政治。
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憲政記念館 |
昭和45年に我国の議会開設80年を記念して議会制民主主義についての一般認識を深めることを目的として設立され、昭和47年3月に開館した。
この憲政記念館のある高台は、室町時代に太田道灌が歌にも詠んだ景勝の地で江戸時代、加藤清正が屋敷を建て、その後彦根藩の上屋敷となり大老・井伊直弼も住んでいたという、明治になって参謀本部・陸軍省がおかれたといい、昭和27年この土地は衆議院の所管となり昭和35年憲政の功労者・尾崎行雄を記念して尾崎記念会館が建設されたがその後これを吸収発展させて現在の憲政記念館が完成したそうです。(パンフレットより) |
おざきゆきお
尾崎行雄
1859〜1954
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政治家。神奈川県生まれ。号は咢堂(がくどう)。慶応義塾、工学寮を中退。
1879(明治12)年『新潟新聞』主筆となる。ついで1881年統計院書記官となるが、明治14年の政変(1881)で退官。1882年『郵便報知新聞』の論説記者となり、立憲改進党の結成に参加。1887年大同団結運動を推進したが、東京から退去を命じられ、外遊。
1890年第1回総選挙に三重県から立候補して当選。以後1952(昭和27)年の総選挙まで25回連続当選。日清戦争前後は対外硬派の先頭にたって政府を攻撃、外務省参事官、文相に就任したが、藩閥政治を攻撃した「共和演説」問題で辞職(1898)。1900(明治33)年憲政本党を脱党して立憲政友会の創立に参画、総務委員を務めた。1903年伊藤の桂内閣との妥協に反対して脱党、小会派を経て1909年に復党した。また1903年東京市長となり1912年まで在職。1912(大正元)年12月第二次西園寺内閣が倒れると、第一次憲政擁護運動の先頭にたって活躍、「憲政の神様」と称された。政友会が第一次山本内閣と妥協するとふたたび脱党、1914年法相に就任。1916年憲政会の創立に参画、筆頭総務となった。 |
こっかいぎじどう
国会議事堂
所在地
東京都千代田区永田町1
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立憲政体の国家において、立法会議の行われる建物の総称。
我国においては、衆議院および参議院が置かれ、国会の議事が行われる建物の通称。
大正7年に一般から設計図案を懸賞募集し、その当選作品を参考に、設計が決定され1920(大正9)年1月に着工、17年の年月をかけて、1936(昭和11)年11月に完成し、第70回帝国議会から使用され現在に至っている(それまでは、明治23年の第1回帝国議会以来、木造の仮議事堂(霞ヶ関)が使用されていた)。
鉄骨鉄筋コンクリート造地上3階建て(一部4階、中央塔屋9階)、延べ床面積53,466u。正面向かって左側に衆議院、右側に参議院を配し、それぞれ独立の玄関をもつ。また中央塔屋下に中央玄関があり、国会の開会式、選挙後の衆・参両院議員の初登院ほか特別の場合に利用される。両議院の議場は左右両翼の2階にあり、それぞれ743u。議席は演壇を中心として同心の半円状に配列され、各議員の議席は指定されている。演壇後方に議長席、その向かって左側に事務総長席、議長席の両翼前列に大臣席、後列に事務局職員席がある。傍聴席、報道席などは議場吹抜け上部3階に設けられている。
憲政会館の展示資料を見ていると、設計当選作他のパースや工事中の鉄骨組立中写真や戦争中コールタールを塗り迷彩を施した事など建物としての歴史も学べますよ
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資料は:小学館版『日本大百科全書』ポケット版他 |