浅草の「炎のオブジェ」
  東京都墨田区吾妻橋吾妻橋1-23-1のアサヒビール 吾妻橋本部ビルに建立されている「炎のオブジェ」です。
浅草に何やら怪しげなモニュメントがある事を聞いていました。
子供の間?(大人の間でも)何やら“ウンコ”と云われているモニュメントで超有名だという事で是非拝見して撮影したいモニュメントでした。
浅草名所七福神を巡ってから見ましたので夕方になっていました(蔵前橋からは昼過ぎでしたが)。
歩き疲れたわたしでしたが、 「あさクサ と 聞いてはいたが 筋斗ウン?」 
疲れながら一句詠んでみました。
オブジェは、フランスのフィリップ・スタルクによるものでちなみにビヤホール「スーパードライホール」の上に鎮座しています。
その横の金色のビルはアサヒビール本部ビルで、ビールジョッキをイメージし、金色の部分がビール、上の白い部分が泡だそうです。
03.01.17裕・記編集
   関連頁:(広島市・広島駅弁の)モニュメント

03.01.16撮影
蔵前橋よりアサヒビールビルを見る 扇橋とアサヒビールビルを見る 浅草御蔵跡碑とアサヒビールビル
水上バス乗り場付近より 吾妻橋西詰より 炎のオブジェ
吾妻橋本部ビル: 1989(平成元)年の竣工の吾妻橋本部ビル。
22階建ての「アサヒビールタワー」は、琥珀色のガラスと頭頂部の白い外壁で、泡のあふれるビールジョッキをイメージしている。隣接する「スーパードライホール」は、フランスのデザイナー、フィリップ・スタルク氏によるもので、屋上の「炎のオブジェ」は、躍進するアサヒビールの心の象徴だそうです。  
フィリップ・スタルク:
(1949-   )
デザイナー。仏パリ生まれ。パリのカモンド美術工芸学校を卒業。
1984年パリ「カフェ・コスト」のインテリアデザインで高い評価を受けたそうです。
オブジェ:
(objet仏語)
「前方に投げ出された物」を意味するラテン語のobjectrumを語源。
現代芸術の用語では、日常的に認められている物の通念をはぎとり、別の存在意味を付加された物体のこと。その発端は、キュビスムのデュシャンの創案にかかるとされている。その後、デ・キリコ、ジャコメッティ、ダリらシュルレアリストとダダイストたちによって、さまざまなオブジェが発表されてきた。こうしたオブジェを、シュルレアリストたちはおよそ次の八つに分類している。(1)数学上の幾何模型や構成された作品、(2)木や石などの自然物、(3)呪術や魔術につながる未開人のつくった物、(4)日常忘れられていて再発見された物や漂流物、(5)市場に出回っている既製品、(6)動く物体、(7)火事で焼けただれ役だたなくなったような物、(8)潜在意識に働きかける象徴的機能をもつ物体など。
キュビスム:
(cubisme仏語)
立体主義。
20世紀初頭、フォービスム(=絵画の革新運動、野獣派)に続いておこった近代美術のもっとも影響力の多い革新運動、その手法。ルネサンス以来の伝統的な写実主義を、フォービスムは色彩的に覆したが、これに対してキュビスムは、形態の面で、一点透視法や肉付け、明暗などの諸原則を覆した。直接的には後期印象派、とくにセザンヌやその後のナビ派による近代美術の流れを受け継ぎ、さらに歴史的には、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、プーサン、アングルなどの系譜にその淵源をみいだせるが、その革新性の大胆さと影響力の広さの点で、西洋絵画史におけるもっとも大きな変革であった。キュビスムの成立には、黒人彫刻の影響など、西欧の美学とは異質の美学の介在が認められる。
モニュメント:
 (monument英仏語)
公共的な記念の目的から、特定の人物や事件などを長く後世に伝えるために設立される建造物の総称。凱旋門、記念碑、記念塔、記念像、霊廟、墓碑像などのほか、歴史的・文化的建造物までを含めていう場合もある。
モニュメントには、相当の大きさ、目だつような高さ、品位、耐久性などのモニュメンタリティ(記念性)が要求される。古代近東諸国や古代エジプト以来、宗教的儀軌と深いかかわりをもって数多く建造されており、現在に伝わる作品には、美術史上の重要な遺品になっているものが多い。
浅草御蔵(跡碑) 浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地(天領)から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫で五十万石(≒62万5千表)を収納できたそうで 大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵お呼ばた。
浅草御蔵は、また浅草御蔵米といい、ここの米は主として旗本、御家人に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。
元和6(1620)年浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一.二丁目にかけての地域を埋め立てて造成。江戸中期から幕末までの前側を「御蔵前」といい、蔵米を扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは昭和9年のことだそうです。
(おくら)
御蔵:

江戸幕府が年貢米、大豆などを収納した穀倉で、御米蔵ともいう。
江戸城内、本所、浅草のほか京都二条、大坂、摂津高槻、近江大津、駿河清水など全国の幕領にあり、勘定奉行が管轄し、主要なものには蔵奉行が配され、蔵米の出納、管理にあたった。
のち江戸浅草と大坂、京都に集中し三御蔵とよばれた。最大の御蔵は江戸浅草であり、隅田川に面して51棟、250戸前もあり、年間40万石余の旗本・御家人の俸禄米の支給と、幕府自らの売却米を江戸市中に放出した。
明治維新で新政府に接収され、関東大震災(1923)で焼失。
浅草御蔵の前を蔵前といい、札差らの蔵宿があった。蔵前の地は現在東京都台東区に属する。
(かんじょうぶぎょう)
勘定奉行:
江戸幕府や諸藩の職制の一つ。鎌倉・室町時代にも勘定奉行、勘定頭(がしら)の名称がある。
江戸幕府の勘定奉行は、勘定所の長官として天領支配、貢租徴収、財政運営や天領と関八州の大名・旗本領などの訴訟を管掌し、寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで評定所の構成員である。元禄(1688〜1704)ころまでは勘定頭と称したが、成立の経緯は不明な点が多い。奉行の定員は4名で、ときに3〜5名。1721(享保6)勘定所は公事方・勝手方に分かれ、翌年奉行も双方に分けられ1年交代で勤務した。



浅草名所七福神へ



(「野外彫刻など」編)
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