仏壇で拝む


00.10.15撮影

00.10.15撮影
我家の仏壇(親父の位牌を分けてもらいました) 今年咲いた白色の菊をいけました。

20.05.15撮影
我家の仏壇(妻・千代子を先に喪いました)
じょうどしゅう
浄土宗
 法然上人源空を開祖とし、阿弥陀仏(あみだぶつ)に帰命(きみょう)し、その本願を信じ、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)によって、その浄土への往生を期することを教旨とする。
知恩院(京都市東山区)を総本山とし、増上寺(東京都港区)、金戒光明(こんかいこうみょう)寺(京都市左京区)、知恩寺(京都市左京区)、清浄華院(しょうじょうけいん)(京都市上京区)、善導寺(福岡県久留米市)、光明寺(神奈川県鎌倉市)、善光寺大本願(長野市)を大本山とする。
あみだきょう
阿弥陀経
 浄土教の根本聖典。鳩摩羅什(くまらじゅう)が402年ころ漢訳したもの。
『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『観無量寿経』とともに「浄土三部経」の一つに数えられ、『無量寿経』を『大経』とよぶのに対して『小経』と略称する。もとはサンスクリット語で書かれ、スカーバティー・ビューハ(極楽の荘厳)というが、おそらく西暦100年ころ北西インドにおいて成立したものと推定される。現在、この原典はインドでは散逸し、悉曇(しったん)文字で日本に伝えられたものだけが残っている。漢訳には、玄奘が650年に訳した『称讃(しょうさん)浄土仏摂受(しょうじゅ)経』も現存している。
ほうねん
法然 上人

1133〜1212
    
 鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖。諱(いみな)は源空
美作国久米南条稲岡荘(岡山県久米郡久米南町)に生まれ、同国菩提寺の観覚の弟子となった。13歳で叡山に登ったが、1150(久安6)18歳で西塔黒谷に遁世し、叡空に師事。1175(安元1)専修念仏の立場を確立し、叡山を下った。1186(文治2)、天台の顕真をはじめとする諸宗の碩学と大原勝林院において念仏を論じた。このころから活動も活発化し、関白九条兼実への授戒(1189以降)、東大寺における浄土三部経講説(1190)などの事績が知られ、1198(建久9)には主著『選択本願念仏集』を著した。また、証空、隆寛、弁長、幸西、親鸞などの弟子が集まり、一大教団をなすに至った。しかし同時に、門下による積極的な活動は在来諸宗の反発を招き、1206(建永1)念仏停止(ちょうじ)の宣旨が下され、1207(承元1)四国に流罪となった。同年末、勅免の宣旨が下ったが帰京は許されず、摂津国(大阪府)勝尾寺に4年間とどまり、1211(建暦1)ようやく入洛、東山大谷に住した。1212年、門弟の源智に念仏の肝要を一紙に記した『一枚起請文』を授けたのち生涯を閉じた。
なむあみだぶつ
南無阿弥陀仏
 阿弥陀仏に帰依するという意味。浄土教では、これを「六字名号(ろくじのみょうごう)」または「名号」といって本尊とする。また、この名号を口に唱えることは称名念仏(しょうみょうねんぶつ)といって、凡夫(ぼんぶ)が浄土に往生するための正しい行為とされる。
中国・唐代の高僧、善導(ぜんどう)の解釈によれば、「南無」とは帰依を意味するサンスクリット語(ナマスの音写)であり、仏に帰依して救いを求める衆生(しゅじょう)の願いを表すという。そして「阿弥陀仏」は願いを実現しようと働いてくださる仏の行動を示すから、「南無阿弥陀仏」は衆生の願いと仏の行動が相応して浄土の往生を実現すると説いた。



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