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←00.08.13プログラム
しょうぎ
将棋 |
将棋盤を挟み2人の競技者(対局者)がルールに基づいて勝ち負けを競う室内遊戯の一つ。
相手の玉(ぎょく)(王)を早く擒(とりこ)(詰める)にしたものを勝ちとする。
日本以外にもチェス(西洋将棋)、中国象棋、朝鮮将棋など各国に将棋がある。将棋の誕生は文献のうえでは不詳とされている。
類似の西洋将棋はインドにおこり、軍隊を構成する象、馬、戦車、歩兵の四つを駒としてさいころを用いて遊んだのが最初であったというのが通説になっている。その発生期を4000年か5000年前と推定し、4世紀ごろペルシアに渡り、チャトランガという名称で知られるようになったといわれる。チャトランガが西洋将棋の原型となり、シルク・ロードを経由して中国に伝わって中国象棋となり、日本に伝わって日本将棋になった。日本に伝わったのは8世紀ごろ、遣唐使として入唐した吉備真備が持ち帰ったと伝えられたが、確証はなく、それ以前に伝えられたと推定する説が有力である。 |
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奈良時代の政治家、学者。吉備の豪族下道朝臣(しもつみちのあそん)国勝の子。
716(霊亀2)年遣唐留学生となり、717年入唐。経史、衆芸を学び、唐で名声をあげた。
735(天平7)年帰朝、唐礼130巻、暦書、音楽書、武器、楽器、測量具などを献じた。大学助を経て東宮学士に任ぜられ、阿倍皇太子(後の孝謙天皇)に『礼記(らいき)』『漢書(かんじょ)』などを講義した。藤原広嗣(ひろつぐ)は、真備が重用されるのをねたみ、740年2人を討つ名目で挙兵、乱を起こしたが敗死した。746年吉備朝臣の姓(かばね)を賜った。751(天平勝宝3)年遣唐副使となり752年入唐、754年帰国。大宰大弐に任ぜられ、在任中に怡土城(いとじょう)を建設した。764(天平宝字8)年藤原仲麻呂の反乱鎮定に功をたてた。 |
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